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ラボ20#9
2001年1月20日〜21日 STスポット(横浜)
高橋大助

ラボ20#9フライヤー表面 ラボ20#9フライヤー裏面  「ラボ20#9」が面白かったのは、〈五人五様〉の好演に、ダンスの現在を見ることが出来たからであり、また同時に、自分の見る姿勢を確認させられたように思えたからでもある。

 ダンスの公演でぼくは、動きやかたちを言葉にしようとしてしまう。動きに象徴を見て取り何らかの〈物語〉を引き出そうすることもあれば、動きからの連想を言葉に換えて思考のダンスを愉しむこともある。

 そんなぼくにとって、一番、与しやすいのは「そしてただそれだけ」(有田美香子)だった。実のところ、公開クリニックを見てこの作品が心配になっていた。テーマとして掲げられた「待つ」、この動詞に誰もが感じるスタティックな響きに引きずられすぎていたように思えたのだ。動かないでひたすら「待つ」姿勢が退屈である以上に、テーマへのアプローチが平凡に過ぎて辛いものがあったのである。ところが、本番は一転して、嫌みのない、弾けた動きの連続で、ダンスの技量から、というより、彼女の身体性そのものから、豊かさが伝わってくる気がした。そして、そこに、新たな「待つ」姿勢を見ることが出来た。動くことで自身に何かが訪れる、それも「待つ」ということ。そう教えてくれるこの作品は、「待つ」という言葉を〈再特異化〉したのである。まるで詩的言語のような機能を持つこの作品、ぼくには美味しいものだった。

 小浜正寛(ボクデス)「フライング・ソーサーマン」は、思い切り楽しめる作品だった。何しろ痛快、そして、羨ましい。まず以て、身体の一部をアニメーションに置き換えてハイブリッドな存在になるというアイデア。前のシーンで、爆弾で吹き飛ばされながら、次のシーンでは、また追いかけっこを再開するキャラクターを可能にするアニメーションのバイタリティを、彼は身につけることになるのだ。どんな優れたダンサーにも不可能な〈超腕伸ばし〉や〈頭部爆破〉といった大技を炸裂させる彼は、ぼくのように、自己の身体の限界に対する恨みと劣等感とを抱きつつ、加えて、身体の〈鍛錬〉への強迫観念に囚われた者にとっては羨望の的に他ならない。

 そんな彼が、一方では、人差し指一本の曲げ伸ばしで観客を集中させてしまう。小さな動きで集中させるこの工夫は、能や日本舞踊にしばしば見られる方法だが、この作品の中で用いられると、批評的に機能する側面があって新鮮だった。あなたは何を見てダンスと思うのか、と見る側の姿勢を問われているようにも思えたのだ。最後、カレーを早食いして「ダンシング・クイーン」をバックに勝ち名乗りを上げるのだが、その姿に大笑いしながら、どこか本気で讃えてしまう。ウケをねらいつつも、同時に、ダンスってなんなんだよ、挑発的に問いかけてもいる確信犯との共犯関係をこちらも愉しみにしたくなるからである。

 意外な方法で観客を集中させてしまうという点では、手塚夏子の「私的解剖実験」にも同じことがいえる。ただ、彼女の場合、武器となるのは〈ぎこちなさ〉だ。丈の短い淡い色のスカートをはき、頭にすっぽり被ったクラフトの紙袋に口紅で顔を描く。視角を閉ざしてのその仕草は、幼子の初めてのお化粧を思わせる、ぎこちないものとなり、観客は思わず見守ってしまう。結果、卓越したダンスとは全く逆の理由で、彼女の〈ぎこちなさ〉は観客を引きつけることになる。そのようにして集中させたうえで行われる、紙袋を裂いて露出させた唇のダンスは、観客の〈まねる意欲〉を喚起する。自分には手の届かないもの、との思いを観客に抱かせてしまう優秀なダンスには望み難いことに違いない。この作品は〈ぎこちなさ〉から来る可愛らしさが基調となってはいるが、ダンスというジャンルに対する批評性という点では「フライング・ソーサーマン」と共通するところがあるだろう。

批評性の高さでは、大橋めぐみの「UDOー未確認舞踊物体」に注目した。ただし、それは直接的に、ダンスを問うものではない。彼女は既に自分の動きをものにしており、それを以て〈世界〉と対峙しているように思えた。「中性的・非人間的」という評言が資料にはあるが、それが表情を消して踊る姿を表面的に捉えてのことではないとするなら、〈世界〉に埋没する観客に対して、彼女のダンスが〈外部〉であることを表しているのだろう。だから、ぼくなど、観ていて痛みを覚えるのである。全身を激しく痙攣させるさまなど、そのすっきりとした体躯が、少年期にあるもののように錯視させ、ジェンダーの暴力に身を晒す少女を連想させる。やっかいなのはその際の彼女の表情である。もし、恐怖や困惑などの色を見て取れれば、〈少女〉の苦悩に同情すればよく、逆に、その不条理に挑みかかろうとする強い意志が伺えれば、俄フェミニストを気取ればよかった。それでいて、どちらの場合も、窃かにセクシャリティを愉しますことにもなったはずだ。ところが、そこにあるのは深い湖のような静謐さを湛えた表情なのだ。ダンスに誘い出されて膨れ上がった思いは行き場を失い、とたんに、自分のこころの動きに気づかされることになる。すなわち、彼女のダンスは、男であるぼくの欲望のありようを映し出す鏡となるのである。観客自身の〈物語〉を暴露してしまうそのダンスは、観客を自身の〈世界〉から誘い出し、〈世界〉を見返す視点を提供する可能性を持つのである。

   大橋めぐみとは全く異なるかたちで、ぼくを〈外部〉へと誘うのが「パープルル」の天野由起子である。彼女のダンスは、一見、象徴性に満ちている。紫のルージュ(?)で身に文様を施す行為など、刺青の文化史を想起させるし、突如行われるシコは、希薄になった大地と身体の関係の再考を促す・・・というように、いくらでも、言葉に出来るはずなのだ。ところが、彼女の姿に、ぼくの言葉はつれなく躱(かわ)されてしまう。拒否されるのではなく、賺されてしまう感じだ。それほど素早い動きの連続ではないから、思考が追いつかないはずはないのに、言葉で捉えることが出来ないのである。語ろうとするいつものぼくは、頻りに退屈さを訴えかけてくる。だが、目を逸らす気にもなれないのだ。彼女の動きに弄ばれていた、とでもいうべきか。確かに、20分ばかりの間、ぼくのこころは不可解な状態にあった。〈いまここ〉ではない、どこか別の場所に運ばれていたような気にはなった。しかし、正直に言おう、この作品が優れたものであることを確信したのは数日後のことだ。時折、フラッシュバック、のような禍々しさではなく、ふわっと、彼女の仕草が意識の端に甦ってくるようになったからだ。ぼくの言葉をすり抜けて、彼女の動きは、ぼくに住み着いたのである。

 にもかかわらず、この作品を語ることは、やはり、難しい。これは、ダンス、なのか、それとも、ダンスとはこういうこと、なのか。彼女を、普通ならダンスにならないようなことをダンスにしてしまう、との評価する者もいるそうだ。しかし、ダンスと呼ぶには、自然すぎる気がしてしまう。ぼくだって、そこで日常が展開されているとは思わない。間違いなく、独特で特別なのだが、では何が違うのか、それを解き明かす引っかかりがないほどに自然なのである。

 他の四作品はそれぞれに個性的だが、ダンス、という言葉からぼくが抱くイメージにから来る〈期待〉を満たしたり、〈不満〉を代弁していたりして、そこを勢い込んで評価することが出来る点で共通していた。しかし、「パープルル」は、それを語ろうとすると、ダンス、という言葉を口にするとき、微かに感じる違和感から来るぼく自身の〈不安〉を見つめ直すよう迫るのである。確かに、思いこみとしてのダンスの〈外部〉へ出るにはそれしかないだろう。そして、その〈外部〉からなら、ダンスの意味、ではなく、ダンスそのもの、が手に取るように分かるにちがいない。そのとききっと、言葉も踊り始めるだろう。出口へのヒントが、不意に訪れる彼女の仕草にあることは分かっている。その場面で、ぼくは、動きそのものを観ることが出来ていたのだ。いまはまだ、それを語り得ない。



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